猿江恩賜公園の日本庭園を見る-1
2016.10.20
■プロローグ
ランドスケープデザインの編集長、小林氏に誘われて江東区の猿江公園にある日本庭園を訪ねた。この地はかつて貯木場で、1932年にその一部(現在の南園部)が東京都に下賜、さらに1983年に北園部が完成し、現在の姿となっている。公園は新大橋通りを挟み南北合わせて14.5haの規模を持ち、スポーツ施設、芝生広場、ジャブジャブ池等の施設により、周囲の利用者に親しまれている。
「公園の南園部に怪しい日本庭園がある」と小林氏にささやかれて来てみたが、それらしい空間が見当たらない。探し歩いていると、通りに面した西の端にひっそり佇む入口門を発見して近づく。一般に入口付近の景観は「真・行・草」で表現すれば真のデザインを用い、カッチリとして格調の高い空間であるべきだと思う。しかしここの入口は通路幅はだらしなく広い上にアプローチが長く、その上中途半端な形に曲がっている。どうにもしまらない景観なのだ。
■すごい石組に遭遇
「なんなんだこれは」と思いながら門から中に入っていくと正面右手にもの凄い量感の石組が現れた。さらに進むと左手に四阿があり、フレームを通してユニークな石組が見えてきた。これは凄い。先程の失望感から骨董市で掘り出し物を当てたような喜びが一気にあふれてきた。
石組としては異端と感じるのだが、ともかく迫力満点である。長方形の四阿は両側の石組群に囲まれ、鑑賞の場所として作られたらしく、そこに腰を下ろして石組を鑑賞する事とした。
四阿から見て北側の平坦地には十数個の石を集中して扱い、水平方向を強調した石組群となっている。石の表情は黒くて落ち着いているが、その奔放な姿はまるで海の大波が岩に当たり砕け散っている様にも見える。計算されたダイナミックな石組の景観だが、当地が江戸時代木材の貯木場であった事を意識した「海の石組」であろうか。
反対の南側には築山に白系統の石を使い、四阿を取り巻く様な構成をしている。そのいくつかの石組群が高低差を付けて組まれ、離れたり、重なりあって複雑な石組の景観を作り出している。見方によれば磐境の様にも見え、厳かな雰囲気もただよう。それは石の節理を石組の基調とするデザインを施し全体の統一感を作ったからであろう。石組群の中の園路を歩くと、石の重なりで変化するシークエンスが素晴らしく、ここを「山の石組」と呼ぶ事としたい。
これらの力強い石組は中島健や小形研三の持ち味ではなく、いわゆる庭師の組み方でもない。私は伊藤邦衛作と推定したがパンフレットに記載がないのが残念である。(後に、伊藤邦衛の番頭であった「加園貢氏」に確認)
■「あ・うん」の関係
南北、2つの石組群をよく観察すると「四阿」を挟んで「日本の美」特有の「あ・うん」の関係が見て取れる。北側の「海の石組」は貯木場であったオマージュで、南側の「山の石組」は日本庭園の石組の原型の磐境へのリスペクトと読み取れる。細かく見れば北側の石は黒く、南側は白く、これも対比のひとつ。そしてワンセットの「海の石組」に対して、いくつか分節して組んだ「山の石組」。「海の石組」が荒々しい水平強調であれば、「山の石組」は優しい垂直強調に見える。この様に石組の相互を「あ・うん」の美学で構成した日本庭園は珍しい。
さらに石組を観察すると、古い日本庭園で表現されていた、思想的、宗教的な事象は反映しておらず、即物的で自然的な描写を感じてしまう。しかし植治を代表とする近世の庭園に現れる怖じけた様な伏石組でもなく、作者の強い表現が伝わってくる。まさに伊藤邦衛オリジナルな石組に私は出会ったのである。
戸田芳樹